☆グループ教室 学習塾“稲進会”の内容も含まれます。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいじめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
・ならぬことはならぬものです
これらは、「什(じゅう)の掟」と呼ばれるもので、江戸幕末期、会津藩の中で行われていた決めごとです。什(じゅう)なのに、十個ないじゃない?と思われるかもしれませんね。私も初めて目にしたときは“なんで7個?”となりました。什(じゅう)は、人数を指します。当時の会津藩では、6歳~9歳の藩士の子供たち10人が一つのグループとなり、それぞれのグループには子供たちが決めた掟がありました。最後の“ならぬことはならぬものです”だけはどのグループにも共通の決まりだったそうです。そして毎晩、グループメンバーの家に順番に集まり、一日の反省会をします。掟に背くようなことがなかったかを互いに確認。もし掟を破っていた場合は、
段階1:無念(みんなに向かって「無念でした」と言って頭を下げる)
段階2:しっぺ(今はあまり聞かないですかね。手の甲をぺしっと)
段階3:絶交(子供版の村八分)
のようなものを受けることに。これらの罰の内容も、グループ内で子供たちが話し合い決めたそうです。
この子たちの中には、その後『白虎隊』に参加した者もいました。白虎隊は、16~17歳の若者が巻き込まれた悲劇の話として歴史に刻まれています。旧江戸幕府と明治新政府との間で行われた戊辰戦争、会津藩は、長年のしがらみから旧江戸幕府側としてこの戦争を戦いました。次第に劣勢となる会津藩、本来守備隊であった白虎隊も戦地に向かいます。戦地で奮戦するも力及ばず城に退却する途中、炎に包まれている城の姿が見えた(※諸説あり)白虎隊の隊員は、生きることをあきらめ壮絶な最期を遂げることに。
白虎隊の隊員の中には、武士として人間として優秀な人材もたくさんいました。やはり、いつの時代も戦争なんてことに良いことはありません。最期を遂げた飯盛山の白虎隊士の墓には、今でも線香の煙が絶えることはないそうです。私も機会があれば、手を合わせに行こうと思います。 (奥松)