2022年9月号

☆グループ教室 学習塾“稲進会”の内容も含まれます。

『周到な準備が勝敗を決める

 最近“関ケ原の戦い”について調べておりまして、あらためて感じたことがあります。

それは準備段階ですでに結果(勝敗)が決まっているということです。                                  

関ヶ原の合戦当日 1600年9月15日 午前6時両陣営の配置 赤…西軍(石田三成側) 青…東軍(徳川家康側)

関ヶ原の戦いは石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍の戦いで、豊臣秀吉亡き後の日本の政権を誰が握るかを決めた“天下分け目”の合戦と呼ばれています。東軍(徳川家康側)が勝利しその後約270年続く江戸幕府の成立につながるのですが、合戦が始まる午前6時の両陣営の配置を見るとどんな印象を持たれますか?“西軍有利!”と思われるのではないでしょうか。真ん中に東軍、周囲を囲むように西軍が配置されています。“鶴翼の陣”と呼ばれたりもします。関ヶ原の周囲は山になっており、有利な地形に西軍は陣を構えることが出来ました。後に結果を知らない世界の将校たちがこの図を見て勝敗の予想をするとほとんどが西軍の勝利を選んだそうです。

 

ですが、実際は東軍が勝利します。勝因は合戦が始まる前にありました。東軍大将の家康は、事前に西軍側の多くの大名に手紙を出しました。手紙の内容は“東軍への寝返り”を要求するものです。実際、合戦が始まると石田三成が頼りにしていた島津軍、毛利軍は動きません。そして合戦の勝敗を決定づけたのが小早川秀秋の裏切りでした。小早川秀秋が西軍を裏切り攻撃を仕掛けたことで、東軍の勝利が確実なものとなりました。もし小早川秀秋が西軍を裏切らなかったら?それでも東軍が勝利していたと思います。この合戦はわずか6時間で勝敗が決まりました。天下分け目の合戦も、わずか6時間です。小早川秀秋が裏切らなかったとしても、合戦の時間が多少長引くことになっただけで東軍が勝ったでしょう。さすがは“鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)”の徳川家康。したたかな事前準備は、陣形不利も問題としません。この時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、人気ではたぶん3番目の家康も最後まで勝ち残った有能な武将と言えるでしょう。

 

 

そして最近思うのは、歴史は面白い!毛利軍はなぜ動けなかったのか、合戦終了後の島津軍の逃亡方法など、面白すぎます。合戦好きな方、いらっしゃればぜひ歴史談義を。(奥松)


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